フィリピンSV

レイテ島の今までとこれから

七種美帆
人間文化課程 2年

滞在6日目。だんだんとマニラでの生活に慣れてきたころ私たちは国内線で一路レイテ島に向かった。降り立ったのはレイテ最大の都市タクロバン。ここは2013年の台風ヨランダで最も甚大な被害を受けた都市のうちの一つである。

まず、忙しい合間を縫って時間を作ってくれたタクロバン市の市長さんにお会いしてヨランダ被災時のお話を聞いたが、私にとって最も印象的だったのは、タクロバン市は災害からの復興のみならず長期的な視点で市政をすすめ、次世代に何を残していくかということもとても重要視しているというお話だった。これを聞いて災害からわずか1年と数か月しか経っていないが、タクロバンの未来は明るい、まずはそう感じた。

実際に台風で被災した人々が暮らすシェルターを見に行った。大きな長屋のような建物が縦に20数軒並び、その一つ一つに20数世帯、計520世帯ほどが暮らしているということだった。
写真の開いている窓に注目していただければお分かりになると思うが、この窓の間隔が1世帯の大きさである。聞いた話だと6人以上の家庭は場合によってこの二つ分の大きさが与えられることがあるらしいが、裏を返せばそれは5人以下の家庭は皆がこの1区画で暮らしているということだ。反対側にはまた違う家庭が暮らしているため、奥行きも十分ではない。流しとトイレ、シャワーは別の場所に共同のスペースがあるが、この広さでは部屋を細かく分けることができるはずもなく、中を覗いてみれば奥のベッドルームとの仕切りに申し訳程度にカーテンがかかっているだけだった。

この写真に写っているだけでも20世帯以上が暮らす。

私たちが日本人だとわかると急に多くの視線を感じるようになったが、これを見て納得した。

話を聞いた家庭の母親は私たちと話している間、終始バケツの中の黄色い液体をかき混ぜていたので何かと聞くとホットケーキの生地だった。毎日手づくりのホットケーキを作ってこのシェルターで売っているのだと言う。台風被災前は多くの男性は例えばトライシクルの運転手など何らかの職に就いていたが、被災後その多くが失業。彼女の夫もその一人だという。「だから私も少しでもこうやって家計の足しにできたら、と思って…。」子供達に囲まれた彼女の朗らかながらどこか力ない笑顔が目に焼き付いた。 このシェルターに暮らす500世帯余りは移転前も同じバランガイ(地区)で暮らしていてまるごとここに移転してきたと聞いた。長く付き合ってきているご近所さんみんなが被災して困っている今こそお互いに助け合おう、頑張ろうという気持ちが強く感じられたが、その「ご近所さん」がホットケーキを売る彼女たちの収入源になっているということもまた紛れもない事実であり、言葉にしがたいもやもやを残しつつここを後にした。

また、レイテ島と日本との関係において忘れてはならないのが、太平洋戦争終戦間際1944年秋に開戦したレイテ島の戦いである。かなり過激な陸上戦が続き、最後には補給船を米軍に絶たれた日本軍の兵士が大量に犠牲になるなどかなり泥沼化した戦いであるが、この戦いを記念してタクロバン郊外のレッドビーチに建てられたマッカーサー像を見に行った。

一番前の帽子をかぶった大きい人がマッカーサー

ビーチというだけあってマッカーサー・ランディング・メモリアル・パークは海辺のきれいな公園だった。そのせいもあって今の私にはマッカーサー像よりもその背後に広がる穏やかな海と途中で途切れたコンクリート製の堤防、えぐられた地面の方にどうしても目が向いてしまうのであった。言うまでもなくビーチ自体はとても美しく、まさに水平線を一望できる絶景であった。フィリピン渡航後はじめてと言えるぐらいのカンカン照りの快晴であったこともあり、たくさん写真を撮った。

もちろん戦争の記憶は風化させてはならない負の遺産であり、そのような意味でこのマッカーサー像は価値のあるものだ。しかし常にここにどっしりと構える彼が1年前の11月、ここからどんな景色を見たのか、サングラスの奥に潜む目で語ってくれるような気がした。

堤防の上で。この向かって左側すぐはすっかり崩れてしまっている。

最後になりましたが、フィリピンSV初のレイテ渡航を最初から最後まで全面的にバックアップしてくれた先生の旧友、ブレンダさんに本当に感謝します。ありがとうございました。