中国SV

中国の民間信仰
〜なぜ中国人は「無宗教」が多いのか〜

勅使河原香里
人間文化課程 2年
中国SV2016:中国の民間信仰〜なぜ中国人は「無宗教」が多いのか〜 写真1

中国に住む中で約半数の人間が、特定の宗教を信仰しない無宗教であると調査機関ピュー・リサーチ・センターが発表した。確かに中国共産党はマルクス主義の立場から、最終的には宗教の消滅を目指すとしている。だからと言って、彼らに信仰がなかったとは考えにくい。そこで、なぜ彼らが無宗教であると答えたのか、実際に中国に訪れた経験を通して考察する。

大澳で撮影

大澳で撮影。中国には三つの世界があり、その中の一つである天界では、玉皇大帝を頂点に官僚制が取られている。天官は三官の中の一つで、福をもたらすとされている。

中国に滞在する間、宗教性を最も感じたところは香港の大澳であった。媽祖や関帝廟はもちろん、民間の家にも豪華な装飾のなされた仏壇のようなものがあった。また、道を歩いていると家の柱に、宗教性を感じる小さな祭壇らしきものがかかっていた。

このような信仰、崇拝というのは何からくるのか。『漢民族の宗教』(1991)の中で、渡邊欣雄は、「漢民族の宗教は、民族宗教から述べねばならない」といっている。また、その民族宗教というのは、「人びとの生活の脈絡に沿って編まれた宗教で、既存の生活組織(例えば家・親族・宗族※1・友人・地域社会など)を母体とした宗教である。宗教的目的は教祖や教義によらず、漢民族の信条にもとづいて〈ご利益主義〉に貫かれている」ものである。

※1 中国の父系の同族集団。同祖、同姓であり、祭祀を共通にし、同姓不婚の氏族外婚制をたてまえとするもの。同じく血縁でも母系は入らず、女系は排除される。したがっていわゆる親族のうちの一つであっても、親族そのものではない。(ブリタニカ国際大百科事典・小項目事典の項目「宗族」より)

この「ご利益主義」が彼らの信仰生活を理解するうえで大切なものである。例えば、土地公という神様は民間信仰の神様で、今でも農耕・商売の神様として信仰されているが、なぜか大澳にある媽祖廟の中にも祀られていた。同じようなことは日本の関帝廟でも起きている。横浜中華街の関帝廟の中には、観音菩薩も土地公も信仰の対象として置かれている。一つの廟の中に様々な信仰や宗教の神様がともに祀られているのだ。ではなぜこのようなことが起きるのか。それはやはり「ご利益主義」だからではないか。自分がどの宗教に属しているかは彼らにとって問題ではなく、様々な神様がいる中で、どの神様が今の自分に必要かということが問題なのである。大澳で入った料理屋では、商売繁盛の神様である「関帝」が祭壇に祀られていた。それは料理屋の目的が商売の繁盛であるからだ。そのように考えると、航海の神様である媽祖の廟が漁村であった大澳にあるのもうなずける。

大澳で撮影

大澳で撮影。店の中にも関わらず、関帝が豪華に装飾され、祀られている。

このような民間信仰は同じく台湾にも色濃く残っているという。しかしながら、広州市内にいる時にはほとんど感じることがなかった。それはなぜであろうか。

民間信仰に直接的な影響はないかもしれないが、やはり文化大革命によるものではないかと考える。1966年から、「破四旧」と呼ばれる運動が行われ、「大陸各地の寺廟道観が非生産的な封建落伍の遺物として改廃された」(澤田 1982:14)という。今回は訪れなかったが、広州にある仁威廟は、文化大革命の際には破壊され、一時プラスチック工場になっていたという。大きな寺廟は文化大革命中でも保護され、また破壊された後には再建されるものもあり、未だにそこに訪れて、線香をあげる人もいる。しかし、大澳で見たような民間の信仰が大切にされている様子は、広州市ではあまり見られなかった。海に囲まれており、体制も大陸と異なっていたことによって、文化大革命の影響を受けにくそうな香港や台湾では現在でも民間信仰が残っていることから、文化大革命の影響力を感じることができる。

本稿の最初の問いは、中国人は信仰を尋ねた時になぜ無宗教と回答するのか、ということであった。それには二つの理由があると考えられる。

まず一つ目は、一つの体系化された宗教を信仰しているのではなく、自分の現在の利益に合わせて神を信仰するという慣習を持つからである。そうなると、自分の宗教を聞かれた際、回答に戸惑ってしまう。そのような経験は私たちにもないだろうか。どの神様、仏様と問わず、神社に行ってお参りをし、仏像の前では手を合わせる。そのような宗教的慣習を持つ私たちが、何を信仰しているのかを聞かれても答えられないだろう。このように考えると、日本と中国の宗教観というのは共通しているように考えられる。また、中国のこのような宗教観は道教や仏教というように分けるのではなく、民族宗教として扱うほうが正しいという研究者もおり、その考えに納得した。日本の宗教観も、神か仏かで分けようとせず、そのまま民族宗教として考えてしまうほうが多くの日本人にとって納得がいくのではないか。

二つ目の理由として、本当に宗教を持たない人がいるからであると考える。文化大革命期は、古い慣習を打ち破ることを運動の目的とし、宗教施設、宗教者に対して、かなりの弾圧をしている。それが解放されたからと言って、すぐに宗教施設が再建できるとは限らず、また殺害された宗教者も戻ってこない。つまり文化大革命後の中国には宗教を支える土壌も、風潮もなかったのではないか。そしてそれが今の中国の「無宗教」の回答のもう一つの理由につながっていると私は考える。日本でも、程度は違うが政府による新党の国教化から、神仏分離が起き、寺院が弾圧されたり、仏像が破壊されたりした。

実は、「無宗教」と回答するパーセンテージは、日本と中国でほとんど違いがない。そしてその理由にも共通点が見られるように考える。他国の宗教観を考えることが、自国の宗教観を理解することにつながることに驚き、実際に他国に行くことで自分の考えが深まる感覚を得たことが今回のSVで一番の収穫である。

参考文献