中国SV

植民地支配の歴史から見たマカオ・香港

畑ゆきの
人間文化課程 2年

マカオは1842年から1997年までポルトガルの植民地であり、香港はイギリスの植民地であった。現在では両地域は中国の特別行政区とされており、一国二制度がとられている。一国二制度とは、マカオや香港が中国の一部であるという前提の下で、定められた範囲の自治や資本主義的制度を存続することを認める体制のことである。

この報告書では、マカオや香港で見られたそれぞれの外国支配の影響について述べる。1ではポルトガルによるマカオ支配とその影響、2ではイギリスによる香港支配とその影響について述べ、3はまとめとする。

1. ポルトガルによるマカオ支配

ポルトガル人が初めてマカオに来航したのは大航海時代、16世紀の初め頃である。1557年にポルトガルはマカオでの永久居留権を獲得し、マカオを貿易やカトリック布教の拠点とした。そのため、マカオには多くのカトリックの教会が今も残されている。ポルトガルがマカオを植民地化したのは1849年のことである。ポルトガルによるマカオの植民地化は、イギリスが香港を植民地にしたことを受けて行われた。それまでポルトガルがマカオを植民地にしなかった背景には、日本の江戸幕府の鎖国によって貿易で利益を上げることが困難になったことや、清が1685年に広州を開放し、マカオが貿易拠点としての価値を失っていたことなどがある。

マカオにおけるポルトガルの勢力が弱まる大きなきっかけになったのは、1966年のマカオ暴動(一二・三事件)である。マカオ暴動は中国で起こった文化大革命の刺激を受けて勃発した。マカオ警察がデモ隊に発砲し2人を死亡させてしまったことに対し、中国側はポルトガルに対して謝罪や慰謝料の支払い、中国共産党がマカオ統治に参加することを要求した。当時のポルトガルは国力が低下していて、マカオに駐留させている軍事力が弱かったため、中国側の要求を飲むこととなった。こうしてマカオにおけるポルトガルの勢力は弱まり、マカオ経済全般に中国資本が入り込み、有力なメディアも親中派になった。

1976年にはポルトガルはそれまで海外県としていたマカオを特別領とし、マカオに対する支配を緩めた。

貿易の中心が広州に移りマカオが貿易の拠点としての価値を失っていたこと、マカオにおける中国勢力が強まっていたことによって、ポルトガルはマカオを植民地にしていても利益が得られなかった。そこでポルトガルはマカオを中国に即時返還することを望んだ。しかし中国側も、ポルトガルの支配が弱く、実質はマカオの行政は中国が行っていたため、マカオが返還されることをそれほど望んでいなかった。そのような状況が続いたまま、1987年、ポルトガルが1999年にマカオを中国に返還することが決定された。

聖ポール天主堂跡

"聖ポール天主堂跡。17世紀に建造された教会が
焼失し、現在は壁だけが残っている。世界遺産。

マカオのカジノ

マカオのカジノ

「東洋のラスベガス」と言われるように、マカオはカジノが盛んな街である。マカオが賭博の街になったことには、イギリスなどのヨーロッパ勢力が中国や香港に入ってきて以降、マカオは西欧人が仕事の休暇を過ごすために使われたという背景がある。1842年に香港がイギリス領になると、1847年、マカオ政府は賭博を合法化した。

今回訪れたとき、マカオではカトリックの教会が建つポルトガルを思わせる街並みと、2000年代以降に新たに建てられたカジノが並ぶ派手な街並みの両方が見られた。マカオではポルトガルの影響を受けているものには、16世紀に建てられた教会をはじめ、古い建物や世界遺産になっているようなものが多かった。カジノホテルがある繁華街はポルトガルがマカオを返還して以降、2002年にカジノ経営権が国際入札されたことを受けてできたものである。これはポルトガルがマカオの永久居留権を獲得したときの勢力が、近代のよりも強かったことを表しているようだと感じた。

2. イギリスによる香港支配

アヘン戦争の結果、1842年に締結された南京条約によって香港はイギリスの植民地となった。当時のイギリスは、アヘン貿易や苦力貿易(中国人奴隷貿易)を行うために良港を持つ香港を重宝していた。香港はもともと小さな漁村であったが、イギリスの支配下で経済成長を遂げた。中国共産党の一党独裁の社会から逃れるために香港に移り住んだ中国人や、ベトナム戦争後の南ベトナムからのボートピープルなどが労働力になった。

1984年9月、2年間ほど続いた中英交渉の結果、中英共同声明が発表された。英国のサッチャー首相は香港を返還することを望んでいなかったが、中国の鄧小平が、中国からの水の供給の停止や中国人民解放軍の武力行使を主張していたため、仕方なく1997年に香港を返還することに同意した。

中国SV2016:植民地支配の歴史から見たマカオ・香港 写真3

香港では、イギリス式の2階建てバスが道路を走っていたり、道の名前がイギリス風だったりと、植民地期の影響を思わせる近代的なイギリスらしさが感じられた。これは、特に植民地時代に、香港がイギリスから文化的な影響を強く受けていたことを表しているように思えた。

また、観光地だけでなくカフェや市場にも多くの西洋人が見られた。観光地でない場所の店の店員も、英語を話す人が多かったことから、英語を話す西洋人が来ても言葉に困らないということもあるのだろう。実際、2014年の香港の入国者数(中国・マカオの居住者を除く)は17589人であり、人口の7264人の約2.4倍もの外国人が入国していたことになる。

3. まとめ

マカオは16世紀から長い間ポルトガルとのかかわりがあったが、植民地時代のポルトガルの勢力は強いものではなく、むしろ中国の影響のほうが強かった。一方香港は、19世紀から英国の支配を受け、経済的に成長し、イギリス文化の影響を受けた。どちらの地域でも、ヨーロッパの影響が感じられたが、マカオで感じられたのは、16世紀から始まったポルトガルのカトリック布教の影響であり、香港で感じられたのは、19世紀からの植民地支配の影響であった。

参考文献
  • 近藤和夫(2011)「中国特別行政区(マカオ・香港)の現状」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』48:53-63
  • 荻野純一(2009)『マカオ歴史散歩』日経BPコンサルティング
  • 津田邦宏(1999)『観光コースでない香港―歴史と社会・日本との関係史』高文研