アメリカSV

コミュニティの閉鎖性と排他性

川畑明仁

今回のSVで私はコミュニティがときに閉鎖性やそれに伴う排他性をはらむことに気づいたので、カストロ*11に焦点を当ててその事をまとめる。

カストロはLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の権利の獲得が目指されている場所であり、ここでは自身がレズビアンである方にガイドツアーをしてもらった後LGBT運動を支えるお店の方にお話を伺った。

差別撤廃運動を叫ぶ団体が差別を起こしていないかということに注目していたが、コミュニティ内には黒人も白人もいて人種や男女の隔たりもなく活動しているように思えた。しかし外部に目を向けるとこのコミュニティの対に立つもの、つまりヘテロセクシャル(バイセクシャルの対義語、異性愛)に対して少し閉鎖的にもなっていると感じた。ガイドの方は「自然状態では子供は様々なことに興味を持ちセクシャルも様々で当然だが、大人になるにつれヘテロというコードにはまっていく」と言っていた。野生動物にもLGBTのような現象はよく見られるようで、自然状態でもLGBTがあることは頷けるが、その論理がわたしにはときに異性愛を逸脱視するようにも感じられた。住民のなかには、今なおカストロに引っ越してくるヘテロに対して反発する者もいるという。ガイドの方は熱心にLGBTの在り方を話していただけだが、その中に異性愛への批判がはらまれてもいるのだろうか。カストロの街自体に排他性は見られず、LGBT運動を支えるお店の方にお話を伺った際の私の印象はただLGBTの在り方を広めようとしているもので、街全体の雰囲気も我々観光客のような人に排他性を感じさせるものでは無かった。ただし個々人では差別の経験などもあり、様々な異なる思いで活動を行っているのだと思われる。

カストロではLGBTというマイノリティーがヘテロの差別に対抗するためにコミュニティを作ったのであり、今なおアメリカの半分以上の州ではLGBTは認められていない現状も考えるとヘテロをコミュニティ内に受け入れてしまうとムーブメントが崩れるという危惧もあり、閉鎖性や排他性を持つことは当然である。しかし、コミュニティにおいてこの閉鎖性や排他性がどの程度になるとまずいのかを考えなくてはいけない。カストロのような差別撤廃を目指すコミュニティにおいては、最初は強い独立性を持つが、徐々に相手との枠を取り払わなくては目標は達成されない。現状カストロではLGBTの権利もほぼ獲得されているので、あまり閉鎖的、排他的になることは好ましくなく、観光地のみでなく生活の場としてもヘテロを取り込み互いの理解を深めることが望ましいであろう。

私は元々エスノセントリズムに興味があり今回のSVの内容とは別個に西洋からの視点で東洋を見たらどう見えるのかを考えていた。その視点で十分な情報を得ることはできなかったものの、自然などの条件が異なるために生じる国や地域間での文化的差異を理解もしくは尊重できないということは、なにも文化のみにとどまらず一つひとつのコミュニティにも見られることを学べた。さらにそれは個人的な価値観の違いからも不必要な蔑視(もしかしたら意識をしていないうちにも)が起こることもあると気付けた。また同時にコミュニティに内部と外部が出来ることは必然的であり、それがどのくらいの独立性なら良くてどのくらいまでいくと閉鎖性また排他性を含んでしまうのかを考えることになった。

小学生のころから「みんなちがってみんないい」と教えられてきたこのことは、よく考え直すとエスノセントリズムの根本にもなり得る深い内容であるように感じる。

注釈
  • *11 カストロ サンフランシスコを代表するコミュニティとも言っていいカストロ (Castro) は、セクシャルマイノリティであるLGBT (Lesbian, Gay, Bisexual, Transgendar) のコミュニティである。コミュニティはカストロストリートを中心に展開され、レインボーフラッグがそこかしこにたなびく特徴的な街並みを見ることができる。私たちはセクシャルマイノリティについて学んできたわけではないが、映画『ミルク』を通して彼らがおかれてきた状況を理解するとともに、ガイドをお願いしたキャシーの話を聞くことで、LGBTコミュニティについての理解を深めることができた。『ミルク』は、ゲイであることをカミングアウトしながらも、1977年サンフランシスコ市の市会議員に当選したハーヴェイ・ミルクをショーン・ペンが熱演した映画であり、1978年に暗殺されるまでのLGBT運動の歴史を知ることができる。カストロでは映画の場面場面で使われた場所を実際に訪れることができる。