パラグアイSV

パラグアイSVに参加して

徳永健人

飛行機に揺られること30時間超。目指す国は、南米大陸の中心に位置する国、パラグアイ。旅の中で飛び交う言語は日本語から英語、ポルトガル語、スペイン語、そしてグアラニー語。トイレットペーパーは流れたり、流れなかったり。昨日まで半袖で過ごしていたかと思えば、雹が降る嵐の夜があったり。その一か月間で僕を取り巻く環境は目まぐるしく変化した。

僕は今回の渡航が人生初の海外渡航だった。ましてやフィールドワークなど未経験。テレビの中でしか見たことのない景色。見たことのない食べ物。見たことのない文化。僕の目に映るすべてのものが「初めて」のもので、刺激的なものだった。

僕には渡航に対して大きなハードルがあった。パラグアイに渡航し、1か月滞在するとなるとどうしても費用がかかる。一般的に苦学生と呼ばれる経済的余裕がない私は、アルバイトを掛け持ちし、今回の渡航のためにお金を貯めた。父親に頭を下げた。足りない部分は借用書を書いて補った。そこまでしてパラグアイに行きたかったのには、単純に「この機を逃したら僕はきっと一生海外に行くことはない。」と感じたからである。犠牲にするものがあったが、それだけ得られるものは大きいはずだと自分に言い聞かせて、夜のアルバイトと深夜勤のアルバイトにも務めた。辛いと毎日感じていたが、人一倍苦労して渡航に臨むのだから人一倍いい経験をしよう、と心に誓った。パラグアイにどうしても行きたかった。

そして出発の日が来た。スタンプが1つも押されていない真っ白なパスポートのページを開いてドキドキしながら出国ゲートに並んだ経験も、渡航メンバーの他のみんなのほとんどはとうに済ませていたこともあって、出発時点ではこの旅を楽しむことができるのか正直不安でしかなかった。

でも、その不安は渡航が始まってパラグアイの日時の9月1日に早くも解消された。パラグアイのアスンシオンに到着して飛行機から空港へつながる連絡通路の上看板に「ようこそ」とひらがな4文字で記されていたからだ。ヒューストンからサンパウロへの飛行機の中でのテレビでも、サンパウロからアスンシオンへの飛行機の中でも「日本語」を目にすることはなかったのに、アスンシオンの空港の看板に「ようこそ」と書かれていたことが僕にはとても衝撃的だった。パラグアイと日本は古くから親交があり、日系移住者達のパラグアイ社会への貢献や日本のJICAの支援がなされてきたこともあって、親日感情が強いということをパラグアイに住む日系人から耳にした。異国の地で、「ようこそ」というたった4文字のひらがなを見ただけのことではあるが、パラグアイ人からの「おもてなし」を受けて、この渡航を楽しめそうだと、ちょっぴり感動した。

パラグアイというのはとても不思議な国だった。「南米の国=褐色系の肌をした人々が多い」という先入観が僕にはあったのだが、行く先で違う肌の色をした人たちが町を歩いていた。古くから混血政策がとられておりメスティーソの割合が高く、周辺国と比較すると珍しい国なのだということは事前学習で把握してはいたのだが、実際に行ってみると確かにそうだった。途中、トランジットで立ち寄ったアメリカは人種のるつぼと言われているのは知られていることであるが、パラグアイでも同じことが言えるのではないかと私は率直に感じた。そのため、パラグアイ人は第一印象でその人のことを決めつけたりするようなことは無いといわれている話を耳にした。多くのパラグアイ人がその地に初めて訪れた初対面の私を、まるで家族であるかのように温かく迎え入れてくれた。 国民性というものは僕が会った人だけを、対象に評価していいものか分からないが、パラグアイ人はとても人情深くて温かいおおらかな人たちが多いとそう感じた。

アスンシオン滞在中に感じたのはパラグアイがエネルギッシュな国であったということである。人口の70パーセント以上が30代以下というだけあって、全体的に見ても若々しさが感じられる国であった。この国はこれからますます消費が活発になって、どんどん雇用が増えて、経済成長をしていくのだろうと想像ができた。その陰で、カテウラ地区のような廃材集積エリアのような場所があったりして、格差が芽生えていることも事実であった。農村部に入ると、新たな問題が発生する。道路が整備されておらず赤土の道は雨が降ると通行できなくなり集落が孤立する。子供が経済的な問題や地理的な問題から学校に通えない家庭があるという現実もある。 都市部でも、農村部でも課題はおそらく多くあるのだろうが、これからどのようにしてその問題が解決されていくか、大変興味が湧いたし何らかの方法でアプローチが可能なのではないかと考えた。

日系移住地区・ラパスを訪問した際にはその特異なコミュニティに私は愕然としてしまった。渡航中、エンパナーダ(パラグアイの揚げ餃子のような食べ物)とマンディオカ(芋の一種)を主に食べていたが、その地区で振る舞ってもらったのはご飯とみそ汁、そして漬物だった。パラグアイで日本食にありつけるなど思ってもいなかった僕たちは、ラパスでの食事がとても嬉しかった。触れ合う言語はもちろん日本語で、テレビをつけるとNHKが放送されていて、ちょうど時期は東京オリンピックの開催が決定した時であったのでその話題で盛り上がった。日本人よりも日本人らしく生活している社会がそこにあった。密林であった何もなかった入植の時期からどれだけの努力を重ねたのだろうかと思うくらい広大な麦の畑がラパスには広がっていて、現地のパラグアイ人たちとうまく付き合いながら成功している様子を見て私は日本人であることに誇りを感じるのだった。私がホームステイした先のご家庭はまさに理想の家族とでもいえるようなご家庭で、滞在日数はわずかであったのに第2の実家のようである。 お母様が「新婚旅行で必ずまた来なさい」という言葉をかけてくださり、とても嬉しかった。今回の渡航でラパスに行けて本当に良かった。

今回の農村部での調査は、フィールドワークを行う調査者としての性格、ミタイ基金のロス・ニャンドゥティーズのスタッフの支援者としての性格の二面性を持って臨んだ調査であった。そのため、村人たちも調査に積極的でインタビューに答えてくれた。今まで、国内で学校建設の資金を集めるために多くのイベントで活動してきたが、それは顔の見えない支援活動であった。僕はもちろん、その国を想って活動していたのではあるが、活動に対する信念は漠然としかなかったように思う。今回、実際にパラグアイに渡航してミタイ基金が支援している子供たちに会って、言葉を交わし、一緒にテレレ(パラグアイでポピュラーな冷たいお茶のこと。回し飲みの文化がある。)を飲んだことで僕の中での意識は変化した。「彼らに教育を届けているのだ。」という実感が強く湧いた。日本に帰ってきてさっそく10月にパラグアイフェスティバルというイベントがあったが、パラグアイに行く前と後での自分のイベントへの思い入れの差に自分自身驚いた。今まで売っていたニャンドゥティのコースターも作った人たちに会って話を聞いてきた大切なものであるから、手に取ったお客さんに伝えたくなることがたくさんある。 そして、パラグアイとつながっているんだ、ということが強く実感できた。イベント中に関係者の方々からも多く激励の言葉をいただいて、とても励みになった。

そして、アスンシオン滞在中のページにも記述したが、12月にアスンシオンの廃材収集エリアのカテウラ地区で結成されたRecycled Instruments Orchestra of Cateuraを良品計画とコラボレーションし、横浜国立大学に招いて合同でワークショップを行った。私はこのワークショップで同研究室の竹間とともに代表を務めさせていただいた。ワークショップの企画は渡航前の8月から始まったが、中々案が煮詰まらず苦労した。何度も何度も内容を練り直して、先生方や大学事務の方々、音響空間スタジオ・国際協力スタジオ、ミタイ基金関係者などの多くのスタッフの力を借りて、ワークショップが形となり運営することができた。楽団員の青年たちもワークショップに大変満足してくれたようで、結果は大成功であった。私自身、マネジメントや企画運営など経験がなく戸惑いながらのワークショップであったが、今回代表を務めさせていただいたことで多くのことを経験できた。

今回の渡航含め年間の活動を通して、藤掛洋子先生のお力を何度もお借りした。私たち学生の多くの機会を与えてくださり、多くの助力やご指導、アドバイスを賜った。パラグアイ渡航も藤掛先生が長年実践者としてパラグアイで活動されたことが、あの刺激的な1か月をもたらしてくれたのだと思うと、感謝しつくせぬ限りである。先生の偉大さを感じたのがサントドミンゴ村でフィールドワークを行ったときで、村人が「Yokoの教え子だから。」という理由で私たちの質問にありのままの言葉を返してくれたことである。社会調査では村人とのラポール(=信頼関係)を築かなければ踏み込んだ質問はできず調査は難航するのだが、私たちは藤掛先生の生徒であるからという理由だけでそのラポールが既に形成されていたのである。フィールドワークの一番難しいタスクが、藤掛先生の長年築き上げてきたサントドミンゴ村との関係がそれを可能にしたのだと思うと私は鳥肌が立った。地球の反対側に当たるパラグアイの都市部から遠く離れた村とこんなにも密接につながりを持つことはどれだけ難しいことか分かるだろうか?藤掛先生にとってのメリットなどないはずなのに今回私たちをパラグアイへと連れて行ってくださった。改めて感謝申し上げたい。

私は今回の経験を一生忘れることはできないだろう。年間を通して改めて振り返ってみても、多くの経験ができ自分自身恵まれていたとしか考えられない。渡航を経たことで自分がグローバル人材へと成長したかどうかはわからないが、自分の中で海外に対するまなざしは渡航前と一転した。渡航で得たものがこれからの私の人生にどれだけ還元されていくかが、私が成長できたかどうかを表してくれると期待している。

Muchas Gracias!!