パラグアイSV

0907-0916 ウブウテエ集落・メルセデス地区調査

私たちはミタイ基金により新しく学校が建設されたばかりのキンタイ地区にあるウブウテエ集落を訪問した。移動中の車の窓から見る景色は本当に素敵なもので、牧歌的な国とはこういうものをいうのかと日々感動するものである。オビエドのホテルから農村に入ること2時間、雲行きが怪しい中キンタイ小学校に到着した。 大人から子供まで雨の中多くの人々が私たちを出迎えてくださった。キンタイ地区に到着した初めの日、その調印式が行われた。藤掛教授とそしてペルミン・マルチネス氏が調印し、これで学校がミタイ基金から文書をもって正式に受け渡されることになった。子供たちに元気に学校に通ってほしいということでサッカーボールを、そして遊びだけでなく勉強も頑張ってほしいという願いを込めて文房具を寄贈した。

さてその帰り道、外は大雨で無事帰れるのかなと恐らく皆が不安になったとき、案の定トラブルは起きた。現地の人々の先導車に続いて走ったものの、途中何度も滑り、泥道にはまってしまうのだった。
キンタイ地区に向かう道路は舗装されておらず、道なる場所はすべて赤土なのである。車が動かなくなってしまい、現地の人々、そしてメンバーがドロドロになりながら一生懸命車を押して移動作業を行った。初めて会った初対面の我々と現地の人々が手を取り合って一緒に掛け声をかけて坂の上まで車を押し上げた時には何とも言えぬ一体感が芽生え、とても感動した。日常でこんなことが毎日起こると、困難極まりないのであるが、道路環境の整備された日本で暮らす私たちにとっては一生で経験しないことであるのでむしろその状況を楽しんでいたようにも思う。

そして後日、このキンタイ地区でもフィールドワークを行った。私たちは今回の学校建設で現地ボランティアとして尽力してくださった方にお話を伺うことができた。 その方は今回の渡航メンバーの一人である博士課程1年の小谷博光が青年海外協力隊としてパラグアイのサンホアキンで活動していたときにお世話になった方でもある。その方によるとキンタイ地区は同地域でも最貧困の地区で支援が行き届いていないとのことである。支援の必要性を感じ、そこに学校が建設されるに至ったのだという。学校建設までの道のりの過程には多くの困難があり学校が出来たときにはメンバーと一緒に泣きながら抱き合ったとのことだ。そのお話を聞いて改めて国際協力の難しさと、日本からの支援だけでは学校建設はできないこと、現地の人々と協力して初めて成立するのだということを実感した。並行して、ウブウテエ地区やその近隣に住んでいる方々の世帯調査、周辺のマップ作り、キンタイ学校の意識調査等を行い、滞在時間はわずかであったのだがとても有意義な時間を過ごすことができた。

まだまだ始まったばかりの小学校であるのでこれから運営していく中で多くの困難が生じることと思うが、きっと1つずつその困難は解決できると思う。自ら外部に働きかけ学校の建設を達成したボランティアの方の無償の努力と、日本の支援者のパラグアイを想っての支援と、私たちミタイ基金のどの1つが欠けてもこの支援は成しえなかっただろう。今回キンタイ地区に学校が建設され、今までより教育を受ける環境が良くなったといえる。しかし、最寄りの中学校がサンホアキン市にあり、通学が困難であるということなどの問題もいずれは解決していかなくてはならない。これからのこの地区がどのように変わっていくか大いに研究の余地を見いだせる。これからも調査者としても支援者としてもこの村に携わっていきたく思った。

そしてメルセデス地区での調査。事前情報として、現地で弁護士をしている方が現状のパラグアイのコミュニティについてのお話をしてくださった。ウィリアム氏から聞いた現場の生の情報はとても貴重なものであった。私たちはメルセデス地区をサントドミンゴやウブウテエのような農村集落だという認識をしていたが、そこは政府によって建設された計画居住地であるということだった。 そこには住民含め様々な環境下で育った子どもたちが住んでいるのである。この時は、これから行く同地区は果たしてどのようなコミュニティなのか全く想像がつかなかった。

そしてメルセデス地区にある小学校の調印式及び開校式に参加した。藤掛教授と学校の代表者が調印し、学校の開校式を行い、ミタイ基金から学校が正式に住民に受け渡された。また、子どもたちが踊りを踊ってもてなしてくれた。 日本から持ってきたサッカーボールと文房具をプレゼントすると、子どもたちはものすごい盛り上がりようで、喜んでいるのが伝わってきて大変嬉しかった。そして後日、改めて式典が行われ、調査活動が始まった。調査は、住宅地を一戸一戸訪問して「学校が建設されることに対してどう思うか」など聞き取り調査をし、職業や家族構成などの世帯調査をする形をとった。住宅地で、他の地区とは一風変わっている地区で、調査する側としては今までの調査と異なる受け答えやペースでのインタビューでしたので刺激をうけた。住んでいる住人の職業は教師をはじめとした公務員や病院の事務、プロのサッカー選手にまでおよび多様であった。農村部と同じように家畜の数も聞いてみると飼っている家庭は少なく、いてもせいぜい鶏が数羽と豚が1頭というのが現状であった。その村には私自身のまなざしではあるが少なからず格差があるように感じた。本当に教育を必要とし、学校を必要とする家庭もあれば、そうとは言い切れない家庭もあるように感じた。格差がそこにあるとなるとアプローチの仕方もまた変わってくるのであろう。私たち自身学びを深めなけらばならないように感じた。

9月7日からの滞在の間、私たちは農村部での調査だけではなく、多くの施設を訪問し見学させていただいた。7日のアスンシオンを出発してコロネル・オビエド市に移動する際には、道中でチパ(パラグアイの伝統的なパン)の工場のマリア・アナを訪問した。チパはパラグアイで親しまれているチーズパンで、小麦粉でなくヤムイモを使って焼き上げるので外はカリカリ、中はモチモチといった食感で私たちがパラグアイに来てから毎日のように食べているものである。工場の特徴は、女性の労働支援をしているということである。経営者であるマリア・アナさんはシングルマザーで、同じシングルマザーの女性や、何か理由があって働きたい女性を優先的に雇用している。マリア・アナさんは、ただの経営者と従業員という関係ではなく仲間として、同じような境遇にいる女性の幸せも願っているそうで、作業の工程や裏の焼き場の様子まで見せていただいた。首都にいた時は焼いてから数時間たったチパを食べることがほとんどだったのだが、マリア・アナでは焼きたてのチパをいただき、中はモチモチしていて美味しかった。海外へ出稼ぎに出たり留学したりする人もこのマリア・アナのチパの味を忘れられず大量に冷凍して持っていく人もいるほどであるという理由が分かるほどおいしかった。

9日には、コロネル・オビエド市から少し遠出をして車に揺られること3時間、ブラジルとの国境まであと41キロのところにあるCETapar(CENTRO TECNOLOGICO AGROPECUARIO DEL PARAGUAY)へ向かった。到着して初めに技師の方からCETaparについて説明を受けた。 CETaparは三つの農協組合によって運営されている、農業研究センターで、かつてはJICAによって運営されていたのもあるのか、現在も日本人の技師やボランティアを受け入れている。約115haの土地で農業施設、畜産施設、研究施設、居住スペースがある。技師の方の説明の後はCETaparと提携している帯広畜産大学の方に施設内を案内していただいた。目の前に壮大に広がる小麦の農園や牛舎を見学した。病原菌に対する対策が日本とは真逆だったのがたいへん印象的であった。同日のCETapar見学終了後、私たちはイグアス移住地にあるレストランFAZENDAへ向かった。ここではイグアス日本人会の会長の方と食事をご一緒させていただいた。久しぶりの日本料理も最高に美味しかったのだが、それ以上に同氏の熱い日本への想いが印象に残った。「俺たちは日本人として生きるんだ」と私たち学生に熱い思いを語ってくださった。パラグアイでそんな想いを抱いて生きている人達がいることを私たち今までは知らなかった。 現地に行かなければ知ることができなかった想いを忘れないよう、そして日本人としてこれからどう社会に携わっていくか自らを考え直す機会にもなった。

10日の朝には地元テレビ局の取材があった。ホテルまで来ていただき、私たちを取材してくださった。この旅の途中で何回か披露している私たちのソーラン節は噂になっているのかここでも披露させていただき、そしてほとんど生放送のような形でパラグアイ時間10日の午前中に放送された。多くのパラグアイの方が私たち一行に関心を持ってくださり、その他多くのメディアで取り上げていただいた。本当に喜ばしい限りである。

渡航15日目には朝からメルカード(市場)に行くこともできた。パラグアイ代表のユニホームや豚の頭など、いろいろなものが並んでいて日本でいうところの商店街のようであった。私たちはマテとテレレの茶葉やグアンパやボンビージャ(テレレを飲むのに使う容器やストローのようなもの)など思い思いのものを購入した。別の日には近くの公園で村人たちが市内に出向いて野菜を販売しているところにも立ち会うことができた。 近くのスーパーでも日々の生活物資や食料品を買うのもずいぶん慣れてきて、グアラニー通貨でのやり取りも十分こなせるようになった。

16日目のコロネロ・オビエドでの滞在最終日には、コロネル・オビエド市にある農牧省を訪問した。入り口前では様々な地域から訪れた女性達が、農産物や加工品などを販売していた。それぞれ売っているものや、包装の仕方が異なっていて、ほかにも市場はあるのだが、雰囲気や売っているものなどまた違って非常に興味深いものであった。安くて、新鮮なものを販売すること。それが市場の目指していることだそうだ。野菜やチーズがたくさん販売されていて、見ていて飽きなかった。そして農牧省ではキヌアの植え付けを試験場にて行って頂けるということで試験場へ案内して頂いた。そこでは民間企業を始めとして、様々な品種の試験的な栽培が行われていた。そこでキヌアを植えて頂けることになった。キヌアの栽培方法や、調理法について説明し、その日は終了したが、パラグアイでどのようにキヌアが育つのか大変楽しみである。

コロネル・オビエド市滞在中はほぼ毎晩、アサード(日本でいうところのバーべキュー)に招待して頂いた。カアグアス県の大学の学長さんの豪邸に招いて頂き、学生たちと交流した夜もあれば、先生の元同僚のお宅で羊肉をいただく夜も。 先生が古くからホームステイ先としてお世話になっているお宅に招いて頂く夜もあり、現地のミタイ基金のスタッフの方とお昼にアサードをすることもあった。毎日多くの方が私たちの滞在を歓迎してくれるので本当に居心地のよい滞在期間であった。

さて、最後になるがここで私たちのオビエドでの移動を支えてくれたランドクルーザーの運転手たちの話を少しさせて頂きたい。メンバーの1人が、村のサッカー場のそばでスマートフォンを落としてしまうというトラブルがあった。もし牛に踏まれていたらとか、もし誰かが拾って売ってしまったら、と悪い方向にばかり考えが向かってしまい皆ですごく心配した。そこで、翌日出来るだけ朝早く村に行きたいと運転手に連絡し、朝5時に迎えにきてもらう約束をした。翌朝、なかなかドライバーの方が来ないので運転手に連絡すると昨日の夜に既に探しに行き、見つけて拾ってきたとのことであった。場所はサッカー場としか伝えていなかったのだが、昨日のサッカーを女子学生が2人でカメラを持って観戦していた場所を覚えていたので、そこを探して見つけたとのことである。滞在先のホテルから村のサッカー場まではかなりの距離がある上に、時間は夜遅かったことだろうと思う。スマートフォンが無事だったことよりも、運転手3人がとても親切なことと私たちをよく見てくれていることに感激した。運転手だけでなく、多くのパラグアイ人が皆優しく、その温かさに触れた10日間でもあった。

次のページからはカアグアス県を離れ、日系居住地区のラパスでの滞在について紹介していく。

◆ コラム

〜農村調査を終えて〜

小林千紘、小林由香里、林奈美

パラグアイ渡航では、パラグアイ農村にすむ女性たちへのインタビューも行った。農村から都市へ野菜を売りに来ている女性たちからは、身内の男性がいなければ移動手段が確保できないため定期的に市場へ通うことが困難であるという声がきかれた。また、ある農村女性たちのインタビューからは家族計画の社会的資源にアクセス出来ずにいる現状が明らかになった。インタビューを通じて、現地で生活をしている農村女性たちの生の声を聴くことができ、渡航前の先行研究から考えていた農村女性の生活がよりリアリティーのあるものとなった。 そしてこのようなインタビューを行うことができたのも、信頼関係(ラポール)の形成があったからこそだとひしと感じている。

現地では実際にパラグアイ研究者/開発援助の実践者として調査を進める教授の姿から多くのことを学び、今後、自分自身が研究と実践をどのように両立していけばよいか具体的にイメージを描くことのできる貴重な経験となった。現地の方々に温かく迎えられる藤掛先生の姿や、現地の方々のとても嬉しそうな表情を目の当たりにしたことにより、これまで構築されてきたラポールの強さを感じた。現場で何が真に必要とされているのかということを知るためには、足繁く現地へ通い、人々との関係性を地道につないでいくことが重要であるということを学んだ。