パラグアイSV

パラグアイ日系移民の歴史

羽鳥馨

1868年、日本人の北米への移民が始まりました。この当時は永住目的ではなく農業従事者の出稼ぎ労働が目的でした。ところが1924年にアメリカで排日移民法が制定たことで、対アメリカ移民が禁止されました。そこで当時、大規模プランテーションでの労働力不足にあった、奴隷解放後の南米ペルー・ブラジルへの集団移民がすすみました。

その後1934年にブラジルで外国人移住者二部制限法が制定されたことにより、新しい移住先国としてパラグアイが注目されるようになり、翌年、日本から100家族のパラグアイ入国が許可されました。1936年、試験的に日本から100家族の入植が許可され、6月にブラジルから、8月には日本から日本人移民者が入植され、ラ・コルメナ地区が創設されました。

ところが太平洋戦争が始まると、パラグアイは日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言し、日本からの後続移民は途絶えてしまいました。第二次世界大戦が終戦を迎えると、日本では戦地からの引揚者、失業者が溢れました。そこで移住行政組織が整備され、パラグアイへの移住も推奨されることになりました。

1952年の日本人農業者120家族の入国許可に続き、1955年チャベス移住地が設立されました。しかし移住者が多くすぐに土地不足になったため、同年8月に隣接するフラム(現在のラパス居住地)に入植が始まり、フラム居住地が設立されました。

一方で、大挙して押し寄せる移住者に現地の受け入れや移住地の整備が追い付かず、移住者は窮乏生活を強いられることとなりました。

私たちが訪れたラ・パス居住区は、パラグアイで3番目に作られた日本人居住区です。1955年8月20日に12家族が入植したことがはじまりで、富士地区、ラ・パス地区、サンタ・ローサ地区から構成されています。1956年に第一陣が渡航したものの、受け入れ体制が整っておらず、入植当初は原始林の中での集団生活という非常に困難な状況での生活でした。

ラ・パス地区の日系移民は、受け入れ体制の整っていない厳しい条件下で原生林を切り開いた実績からパラグアイ人に「勤勉な日本人」という印象を与えました。またパラグアイでほとんど摂取されていなかった野菜を栽培したことで、パラグアイ人の食生活の改善に貢献しました。2002年時のパラグアイにおける日本人移住者は約 7000人、人口の0.14%の少数民族ではありますが、農業分野で、自給や輸出による外貨獲得に大きく貢献しています。さらにラ・パス居住地では、勤勉さが高い評価を受け、日系人が市長や市会議員に当選しています。現在ではアスンシオンやエンカルナシオン、シウダー・デル・エステといった都市部を中心に、農業だけでなく商業、工業、金融業など幅広い分野で活動しています。